植物身辺帳

植物身辺帳

種植えて新芽出て伸び葉が茂り蕾が出来てついに花咲く

そろそろ暖くなってくれていいと思う

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と妻が言うので笑っていたが、実際のところ言う通りだ。といってもあとふた月はこんな調子か。寒さゆえに外での作業は億劫になって、コーヒー・タバコをヤる合間の細切れ時間でちょこちょこと。おかげで家の中での作業が多くなって、壁の付けれそうなところには棚が増えている最中だ。

 

外での作業がしたいのはなぜかというと、その時間が自分にとってアレと向き合う時間になっているからだよ。木を見て、構造を考えて、力の入り具合を思い、手を動かして道具を使って、それをやる。そうすると直接は関係ないかもしれんし、すごいひっそりとやけど、明らかに関係しているアレがそこに出てくる。そこにっていうか私(?)に。

「物語ることは何かを流す」というようなことを河合先生が言っていたのを思い出す。「癒し」というところに押し込めるには大きく見えるけど、マア、そういう側面もあるか。

この歳になって思うのは、恐れを見ずに済ますことはできる、ということ。そうして見ずに済ましたことがどうなるのかは知らない。ユンギアンは見ずに済ませたものは回帰してくるって言うけど、それより先に寿命が来るかもしれないし、別に義務ではない。

けど、受け入れたら世界は広がるもんね。

 

しばらく本を読むのを習慣にしてきて、今も読んでいる。習慣ができて長いので、困ることは少なくなった反面、流して読んだりしてわかったつもりみたいなことも多くなった。これは一人で読んでいるのもあるだろうと思う。

tumblrでも機械的なリブログは依然続いているが、ぱっと見て大体の意味をとって、アアあれね、はいリブログ。本当のところ、何がしたくてやっているのかわからんところがおもろい。いや、そうかな?でもやるけどね。

 

そういう話じゃなかったね。テクストを読む際の慣れはあんまりええ方向に働かんこともあるんじゃないかなと思っている。エラーはもちろん減る。けどエラーを出す方が面白い世界もあって、慣れはそこから人を遠ざけるような気がするんです。

なんか知らん、トライアンドエラーが面白くて、作業場でそうやってカチャカチャやって、そうして失敗するとその時もやっぱりアレが出てくる。それを見ずには始まらんので付き合う。

 

そんなことをやっていると、また文字の方へも変化があって面白い。

 

今日はいい感じの松(多分)が家にあったので、スツールベンチ的なヤツを作ろうと図面を書いた。昼頃にか、荒材をまた買ってきてその木と組もうと思っている。

 

写真は昨年梅雨入り前頃の芍薬の切り花で、この数日前にまん丸の蕾のを買ってきたら急に綻んだので驚いたのを思い出す。畑があったら山盛り植えたい花の一つ。そんなことを言うてる間に、また時期が来るだろう。