植物身辺帳

植物身辺帳

種植えて新芽出て伸び葉が茂り蕾が出来てついに花咲く

デインジアバンブリウス

現実が裂け目から顔を覗かせていた。

これはまずい、と思わず目を背けそうになる。

防衛機制というのもうまくできたもので、直視は流石に目をやられるとわかるのか多分少し薄まってから見ているらしい。
それでも誰かが見なければならない、と言って目を向ける。
 
竹かなにかの籠でできた球。それは東南アジアの競技で使われるものであったかと思うが、自分の現実がああいう形でああいう弾力を持っているのであれば、こんな裂け目なんかに出会わなくて済むのに、とたまに想念の行くままに任せているとそんな風に思ったりすることがある。
残念ながら、そのようなはっきりとした弾力性ではなくて、遅延の発生する程度の弾力性しか持たない私達の現実は、その遅延の故に裂け目として物自体からのgiftを私達に届ける。
そしてそれに撃たれ、しばらくのあいだ無防備な内膜を曝す危険な時間。
しばらくすると遅れてやってきた膜がその裂け目を覆い、何層かの快く柔らかい層を形成する。この現象は血小板凝集に喩えてもよいかもしれない。
ラカンさんはかつてシェーマRSIという図式でひとのものの見方を図式化した。RSIとはle Réel, le symbolique, l'imaginaireで、それぞれ現実界象徴界想像界と翻和される。シェーマは英語のschemaとほぼ同義。
それからすると現実界を直視、ということは出来るはずのないことであって、私が言うのも物自体の方からというぐらいのもので、役所の方からなどと方角のニュアンスを含み詐す消火器の訪問販売とそれほど変わったものでもない。
 
それはさまざまな層を以って構成される。
たとえば「見なければならないなどと言ったのは誰だ」という問いがその方角を示唆するかもしれない。
そのスキーマは「こう見える一方で、ちゃんと知っている」という構造を取るように見える。
そして私は所与のもののうちどれかを選ぶ。
こうなってくると自由意思などというのも俄に怪しくなってくるが、別に自由意思があってもなくても困るものではなく、近頃は、水道か川か雨か、飲水は充分に足りている状況でシルクロードのオアシスを目指した身の滑稽をこそ思うようになった。
ある人は三つ巴の話から所与のあり方を論じたが、その中で次のように言う。
「どれでも」
人心にあって蔓を伸ばす想念についての着想を得たのは、おおよそ3年も前のその話の中であったし、それ以外にも語られる世界の印象の新鮮と精彩からの影響を受けるのが楽しくて折にふれて見返している文章で、紹介したいところも、ゆえあってできないのがもどかしくもある。
その話の種子は私の中で着実に根付き、蔓を伸ばしているように思う。
とはいってもあまりこういう蔓の伸ばし方も、しかし感心したものでもないか。
散歩でもしてこよう。