植物身辺帳

植物身辺帳

種植えて新芽出て伸び葉が茂り蕾が出来てついに花咲く

嵐前の静けさ!チャン!チャン!

雨が降ったり止んだりしている。今は強い雨。
さっきちょうど降り止んだ時にチャリンコをかっ飛ばしてFマートで炭酸水とタバコを買ってきて、蚊とカナブンの緊急避難場所に誰かが指定したらしい我が住処で焼酎を飲む。
久しぶりに一人で飲む、と思い返して、先日酔っ払って独りベロンベロンのペロンペロンになった夜を思い出した。あんまり久しぶりではないのかそうか。
カサブランカにいた頃はよく飲んだ。カサブランカというてもモロッコではなくて大阪のちょっとしたスラムみたいな変な建物で、そこへわたしはしばらくのあいだ住んでいた。思えばその頃もいろいろなことがあったもんです。
白い家とは名ばかりのアレさ加減ではあったけど、建て増しによる建て増しが奇跡的に成功した建築物に特有のある魅力を持った建物であった。
わたしが出てしばらくして、独りの学生がそいつの住んでいた部屋のまんなかに教科書を積んで、それで何を思ったかそれに火を付けて、そしてその愛すべき建物は全焼した。
わたしの住んでいた隣の部屋で、反対の隣に住んでいたおばあさんはそのとき亡くなった。
住んでいた時は近所にコーヒー豆の焙煎屋があって、そこで豆を買ってきてよく淹れていた。ある時そのおばあさんを誘うと、濃いのはあかん、インスタントで薄く淹れなあかん、と言うので、コーヒーをともに飲む機会を逸したままだ。

その年代にときどき見かける(ような気がする)オリジナルを敬して遠ざく慎ましやかと呼べばいいのかどうなのかというある種の言葉。それに出会うと好ましさとなにかが同居したようなものをなぜかわからんがいつも感じる。

今みたいにお茶を淹れる割合が大やったら、そのときはお茶を誘った筈でそれならば飲んでくれたかもしれない、と思う。しかしそれも飲みっぱなしでさんざっぱらのご迷惑をかけていた日々のことであって、お茶であったところで飲んでくれなかったかもしれない、とも思う。
いずれにしたって謝る機会は永久に失われてしまった。
彼の学生が火を付けたのは夜中でもあり、火の廻りも頗る早く、足が不自由で伝い歩きのご婦人には逃げおおせるだけの時間もなく、また周りも助ける暇がなかったらしい。
その時に元わたしの部屋に住んでいたのは、わたしが住んでいた頃からよく飲んだ友人のひとりである。彼女も声をかけられたか、自分で起きたか幸いにして助かった。
その友人ともしばらく会っていないが、今どこにいるのだろうか。超会いたい。
元気にしているだろうか。
彼女の方から共通の先生に連絡があったのを、その先生のご親戚にちょうど不幸事があったところで返事ができなかったり、などなどのタイミングを逸するときには逸し続けるものであることよなどと思う。

しかし、仮に機が合ったところでそのときのわたしは伝えたいことを伝えることができただろうか。今なお心許ないけど、それでも久しぶりに会って飲みたい、というのはときどき思うよ。おーい。

共通の世界を消そうと思えば、教科書を束にして火をつければいい。あいだにあるものはそうやっていとも簡単に失われる。
なかなか愚かなもんやな、ととりわけ自分について思うのは、自分がその学生さんと同じようにいろんな世界をそうとは知らず燃やしてきたからだ。まあ、実際に教科書に火をつけたりはしてないけど。
シンとした燃え跡に立って、どうも空虚だ、と自分のしたことにあくまでも気づかずに口の中で呟く。
人間の愚かさをこそ、と誰かが言ったが、なかなか自分の愚かさをそれと認めるのは、焦点距離が0m~と記載されていながら実際のところ30cm以内には寄れないレンズの持ち主、つまり大方の人間には時間が掛かるもんで、気づいた時にはもう遅いのかもしれない。
しょうがないから創ろうと思ってゴソゴソしていたけどなかなかそんな簡単にできるものでもないよね。
それでしょうがないから人と会った時にふわりと出来る世界の中で束の間の楽しみに浸り、時計が外から呼びに来るとじゃあまたねと言って別れる。
世界は消える。
時計が呼びに来る、という言い方をわざわざするのは、世界がなくなる時にはいっしょに時間が消えている、とあるときふと気づいたからである。
時間というのもわたしの時間、わたしとあなたの時間、わたしたちの時間、というようなもの。
時計も時間を刻むじゃないか、と言うかもしれないが、実際のところ連中は空間を刻んでいるだけだ。
視覚優位の世界にあって時計たちは自分たちが正統な時間であるなどと主張している。あんまり声高に主張するもので、時間的動物の方でも、ああそうか、などと思って自分の中にある時間を見失ってしまう。そしていとも簡単に世界は消える。
いつか誰かがプルーストを時計たちにわかる言葉に翻訳してやらなければならないだろう。それはとても真っ当で、とても重要な仕事である。
そんなことは私には出来ず、広い世界には適任者がいるだろう。
それはともかくとして自分の中の時間は感覚に支えられている。
そして多分そういう時間を形作るものと心臓を動かしているものの根本は同じだと思う。
最近そういうことが気になっている。
酔ったのでまた今度にしよう。