植物身辺帳

植物身辺帳

種植えて新芽出て伸び葉が茂り蕾が出来てついに花咲く

ブラッド・スクーパと剣と禅

ここんとこ外に出る日々が続き、家で本を読むにもネグリやスピノザで、手応えがあるどころか少し気が張ったので、久しぶりに小説を読もうと思って、森博嗣氏のブラッド・スクーパを買って読みはじめた。

盗賊から「秘宝」を守るため庄屋屋敷の護衛を乞われたゼンは、一度は断るのだが――正義?強さ?若き侍はなにゆえに剣を抜くのか

と新刊案内に書いてあった。

ずっと前にTumblrで流れてきたのを読んだときに、自由な安定感のある文章だなあ、と思って、それで気になって、前に新書を買った。

それが面白かったので、今度は小説を読みたいなあ、と思っていたところで、本屋に行くとカクテルパーティ効果(?)で出会い、購入。

そういえば名前をはじめて聞いたのは兵庫の山奥の温泉で、友人がスカイ・クロラの話をしていたときだった。

あれは何年前だ?

 

さすが科学の人、というと怒られるだろうか。

工芸品などで、よい仕事である、というときの仕事。

その仕事の語感がぴったりな、感触のある文章世界であり、考え方であり。

内向きかつ宙に浮いた自分の文章や考え方に反省しきりの私としてはとても勉強になっている。

 

さて、ブラッド・スクーパ

各章頭に掲げられた章句が天心の『茶の本』であったのには驚いた。

同時に買ったのが鈴木大拙師の『無心ということ』だったから。

主人公の名もゼンという。

重松清氏による解説は嬉しい。

これによるとゼンは禅であり、名は禅之助。

 

禅。

瞑想の習慣がついてしばらくになる。

なんのこともなくただ座って、出てくるいろいろを自由に任せているような、瞑想とも言えないような、ほんとにただ座る時間。

しかし己を観る眼は、ときどき変化をして、そういうのが面白くて、座っている。


鈴木大拙師の本は本屋で開いたところに、気づきというものはそれを表現せねばなんにもならぬ、というようなことが書いてあって、それでそういうもんだろか、と思って、けどほっとけば忘れるし、たしかにそうなのかもしれぬ、これを人はどう表現してきたのやろか、と気になったので、この本も購入した。


木刀を作ってくるから素振りを教えてほしい、と会津剣道出身の友人に言うと快諾してくれたので、そのあと山に行って仲間にそのことを言ったら合いそうな木を教えてくれて、これはますます腰と肚が充実してくるぞと予感したのがちょうど先日。

生活の緯糸と経糸が美しく綾を成しているように思えて嬉しい。


大拙師の本も今ぱらりとめくると、剣のことが書いてある部分があった。


禅と剣。

これはなかなか手応えのありそうな今後の予感である。

そしてブラッド・スクーパである。

「そうですか、どうもありがとう」

「道場にいらっしゃったのでは?」

「そういうわけではありません」

「しかし、クズハラ様から、言いつかっております。もうすぐ若いお侍が訪ねてくるはずだと」

「え?ああ、そうですか。それは、私のことでしょうか?」

「いや、それは、その、私にもわかりかねます。あ、しかし、その刀……、ええ、水色の細い鞘の刀をお持ちだと聞きました。貴方のことに違いありません」

「不思議ですね。約束をしたわけでもないのに」

「クズハラ様は、そういうことを見通せる方なのです。さあ、どうぞお上がり下さい」

「一服していって下さい」

「クズハラ様がいらっしゃるのですね?」

「いえ、それが、所用があって、出かけております。戻るのは昼過ぎになります。さあ、どうぞ、お持成しをするように言われているのです。どうかお願いいたします」

「うーん、そうですか」

それ以上断る理由も思いつかず、しかたなく、招かれるまま、玄関で履き物を脱いだ。

「私はコバと申します。お名前は何とおっしゃるのでしょうか?」

「これは失礼をしました」もう一度立ち上がり、お辞儀をした。「私はゼンといいます」

なんとも気楽な風がして可笑しみを誘う会話、長々と引用してしまったけれど、ここの会話がなぜかとても好ましく、読書の楽しみがまたひとつ増えて嬉しく思っている。