植物身辺帳

植物身辺帳

種植えて新芽出て伸び葉が茂り蕾が出来てついに花咲く

木を組むことについて

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前までの木工は切った張ったの一本勝負やった。しばらく木を組んでみたいと思っていた。ノミも手に入れた。けどちょっとハードルがあった。

そんな中で隣の親父さんに砥石をもらってノミを研ぐようになった。ほんで彫ったり削ったりしているとだんだん馴染んできたので、デッサン的に木を組んでみた。それがこちら⬇︎

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それで面白くなったので(構想ばかり膨らんである意味ストレスになってた)椅子を作った。それが上掲の写真。

先週ぐらいにテーブルを高くしてたので椅子を増やしたかったのだ。そりゃあもちろんぐらつきはあるし、隙間もある。でもいろいろわかったりしたことと比べると小さなことだ。

「とりあえず習作、さっさとデッサン主義」がこちら方面でも回り出して嬉しい。

コーヒー飲も。

 

 

そろそろ暖くなってくれていいと思う

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と妻が言うので笑っていたが、実際のところ言う通りだ。といってもあとふた月はこんな調子か。寒さゆえに外での作業は億劫になって、コーヒー・タバコをヤる合間の細切れ時間でちょこちょこと。おかげで家の中での作業が多くなって、壁の付けれそうなところには棚が増えている最中だ。

 

外での作業がしたいのはなぜかというと、その時間が自分にとってアレと向き合う時間になっているからだよ。木を見て、構造を考えて、力の入り具合を思い、手を動かして道具を使って、それをやる。そうすると直接は関係ないかもしれんし、すごいひっそりとやけど、明らかに関係しているアレがそこに出てくる。そこにっていうか私(?)に。

「物語ることは何かを流す」というようなことを河合先生が言っていたのを思い出す。「癒し」というところに押し込めるには大きく見えるけど、マア、そういう側面もあるか。

この歳になって思うのは、恐れを見ずに済ますことはできる、ということ。そうして見ずに済ましたことがどうなるのかは知らない。ユンギアンは見ずに済ませたものは回帰してくるって言うけど、それより先に寿命が来るかもしれないし、別に義務ではない。

けど、受け入れたら世界は広がるもんね。

 

しばらく本を読むのを習慣にしてきて、今も読んでいる。習慣ができて長いので、困ることは少なくなった反面、流して読んだりしてわかったつもりみたいなことも多くなった。これは一人で読んでいるのもあるだろうと思う。

tumblrでも機械的なリブログは依然続いているが、ぱっと見て大体の意味をとって、アアあれね、はいリブログ。本当のところ、何がしたくてやっているのかわからんところがおもろい。いや、そうかな?でもやるけどね。

 

そういう話じゃなかったね。テクストを読む際の慣れはあんまりええ方向に働かんこともあるんじゃないかなと思っている。エラーはもちろん減る。けどエラーを出す方が面白い世界もあって、慣れはそこから人を遠ざけるような気がするんです。

なんか知らん、トライアンドエラーが面白くて、作業場でそうやってカチャカチャやって、そうして失敗するとその時もやっぱりアレが出てくる。それを見ずには始まらんので付き合う。

 

そんなことをやっていると、また文字の方へも変化があって面白い。

 

今日はいい感じの松(多分)が家にあったので、スツールベンチ的なヤツを作ろうと図面を書いた。昼頃にか、荒材をまた買ってきてその木と組もうと思っている。

 

写真は昨年梅雨入り前頃の芍薬の切り花で、この数日前にまん丸の蕾のを買ってきたら急に綻んだので驚いたのを思い出す。畑があったら山盛り植えたい花の一つ。そんなことを言うてる間に、また時期が来るだろう。

さて新年だ。

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去年の冬至ごろにすでに年が開けたような気分でゆったりしていたので、年が暮れても開けても始終ゆったりとして座ったり横になったり、こんな正月はこれまでなかったな、と思った。

そう思ってなんでまたこんな気分で年を越したのやろと思うと、なんやかんや落ち着いたり見通しが立ったりしたのもあるだろうけど、そういうのも抜きにすると暦からの距離ができたんかな、と思った。

そりゃまあもちろんこの15年ほど曜日とあんまり関わらんような生活をしているのやけど、関わらんとは言うても、なんと言うても暦やもん、大きな物語ですよ。それはやっぱり横目に気になってはいたのやろね。

けど今年気にならんというのは距離ができたということで、ということはもしかすると受け入れたんかな、自分の物語を、とかって思って今日なんか車走らせながら嬉しかった。それか、マア、開き直りの三太郎というか、あるいは図々しさよ三十路の半ばという奴か。

実際のところその辺の具合がどんなもんかは知らんけど、ほんで知らん間にあった距離ができたことへの拗ねみたいなのも知らん間に無くなったのかは知らんけど、なんか知らん社会というものはあるものだなあ、と思った。(なんか知らん)

そう思って、知らん間にいなくなってしまった大人のひとたちが帰ってきたらええ加減駄々をこねてやろうという気分もなくなって、マアエエカというような気分になった途端、同じ部屋にそのひとたちがずっといたことに気づく平和な喜劇。そんな風なおかしみがある気がして自分を(自分と)笑った。

それでも距離は適宜あって(たぶん)、それを含めて受け入れて(おおむね)、そうするとかえってそれをそれとして尊重するような気持ちが生まれるものだ。道行く人の興に添えて、松と南天を活けてみたりしたのも楽しい。

さて、そういうわけで2018年、明けましておめでとう。

明けましたね、今年もよろしく。

技術について

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技術的なところの自信が欲しい、としばらく思っていた。文章を読むことや物事を解釈することだけでなくて、その先に技術があれば何かが回るはずだと思って。

この数年はその先の出所がなかったので、その回路は内うちで蕩尽されていた。

内にぐるぐる回って外に出ないというのは、あんまり愉快なものではない。

 

まず内で回って外に出ていないことに気づき、それから外に出す仕方を知らないことに気づき、それを出す仕方が広く技術と呼ばれていることに気づく。

そして技術への憧れを持ちはじめ、まだ見ぬ技術を思う。

それを実現させる道具を得、材料を得て、おそるおそる手を動かしはじめる。

たくさんの失敗とそこから得られた何か、また得られた何かをヒントにして、また手を動かして得られた成果物。

それをきっかけとしてその横の、斜め横の技術への憧れがまた生まれ、道具を得、手を動かす。

人に聞きはじめる、これはどうやってやればいいのだろう。

また問う、この道具はどうやって使うのがいいのだろう。

そして問いと答えが、見える世界を変えうることを知る。

また同時にすぐに飲み込めない答えがあることを知る。

そしてまた今度は自分に問いながら手を動かす。

あるいは材へ、道具へ問いながら手を動かす。

 

そんなプロセス、そこから先にある開けたところにこのところ出て、また分からないことは多く、けどちょっとだけ自分の技術が人の役に立つようになってきたな、と思う。

年末にあって、なかなかしみじみとした夜だ。

 

そういえば技術についての話のアウトラインを書いたのをHTN氏に見せてなかった。

送っとこ。

(写真は最近作った棚。同じ感じのやつを別の場所に他に2つつけた。)

11月は結構めまぐるしい

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と石井氏が言うていたが、実際そんな感じだ。
12月になるとスッとまとまりが出るという話なので期待している(占い)。

 

石井ゆかりさんとこ

http://st.sakura.ne.jp/~iyukari/

仕事でジモティを使うというのはこれまで思いつかんかったけど、昨日遊びに来たF氏が「いんでない?」というので開始した。

 

今日また来てくれて、様々会議しながら書いていった。

 

そしたら依頼もすぐに来た。

ジモティって機能してるのかどうなんかわからんかったけど割と活発っぽい。

 

今の派遣仕事はとりあえずそのままやってこうと思う。

でも体動かす方にシフトしていきたいというのはやっぱり強くある。

ジモティに加えて手書きのチラシも作ったので、それを近隣の事務所やお店に配って、そっちの方の依頼が継続的に来るようになったらええなと思う。

週に10単位ぐらいやりたい。 

引き続きできる事を書いていく予定。

リストアップとかする。

上の写真は屋久島野紺菊で可愛らしいすっきりとした花を咲かせてくれた。
今は足摺野路菊が咲いている。これは足摺岬と思っていたら、それだけではなくて宇和島から佐田岬にかけても分布するらしく、思わぬところで地元品種を買ってきたのだった。なんとなく嬉しかったね。花も葉も柔らかくって可愛らしいし。

下の写真は勢い増した絹枝さん。ずんずん進むよ!

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喫茶道草に久しぶりに行った

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車で本屋に行ってファイルを買って、その後ご飯を食べて(@王将)、そこから喫茶。

コーヒーを飲んで一服、モンブランと豆を持ち帰り。やはりいい店だ。あの店の良さはコーヒーの美味さはもとより、分厚い木のテーブルや煉瓦の仕切り、足元の木床にもあって、それらがまたコーヒーを一口した時のゆったりとした気分を支えていると思う。棚に置かれたエンジンや出窓の植物の脇の古いコーヒーミルもまた。お店の人々も優しい。少し話せてよかった。

本屋で買ったファイルは「参照」「マニュアル」について改めて考えたいと思って買った。よくあるポケットファイルで、ポケットは20枚。前回は契約書や資料などホッチキス留めのものを入れる封筒的な使い方でそいつも引き続き活躍中だが、今回はペラ2枚表裏で1つのポケットを使う参照式の使い方にしてみようと思っている。例えば仕事の段取り、進捗表、カレンダーといったものをすぐに参照できるようなファイルで、前回のものが中身をそこから取り出しして使うのを想定しているのに対して、今回はパラパラとめくって眺めることができる。

どういうものがあれば便利だろうか、とリストアップしてみたところ面白いことに気づいた。すなわちどういうものが便利かわからない、ということ。そんなことを言うと笑われるかもしれないが、本当だから仕方がない。ファイルを買ってきたものの何を入れたらいいかわからない、というのはなんかの滑稽さもあっていいでしょう笑

マア、「参照」について考えたいというところからの出発やから、そもそも順序が反対なんやね。しばらくこのファイルで遊ぶ。

 

(帰ってから石井さんの3年占いが出ているのを真弓氏が注文してくれた。)

モンブランはやはりうまかった。)

(図書館で植物学の本を予約した。植物学の勉強したいと思って。)

 

料理に加えて木工がおもろい

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そういえば丸一月書いてなかったのやね。

10月は書きたいことがあって、しばらくそのテーマと向き合っていた。そのテーマは主にものづくりに関わることで、手を動かして何かを作る中で世界や世界を作る技術と自分が親密になっていくというような話を書きたかった。何気ない環境、それを誰かが何かの技術によって作ったことに気づいたりとか。そしてその技術を引き継ぐこととか。無名の作家の寡黙ゆえのロストテクノロジーとか。

それをしばらく書いていると、ゼミでしばらく読んでいたアーレントの文章が根元にあることに気づいてまた読んで、そういえばと思って佐々木中氏の文章を読み返したり、窓際の飾りにしていたひょうたんで灯りを作ったり(来年は植える!)、棚を作ったり(これは納戸と押入れに二つ入れた)、棚板を増やして食器が入るところを倍増させたり、絹枝が台どこに来れんようにする柵を作ったり(この柵は「なんで家の中に柵があんねん!」と一度外したものの便利だったのでまたつけた)、裏の親父さんにもらった砥石でノミや包丁を研いだり(丸ノミを研いで丸刃にしといて自分は凹んだ。どうしたらいいかわからんで次の土日にはまた親父さんを訪ねよう)、妻の職場の芋炊きに呼んでもらって酔っ払ったり、誕生日を祝ってもらったり、絹枝の前で急に活動停止して面白がらせたりしていると11月の3日やね、今日は。

まとめて書こうとするとアレやね、やっぱりええのを書こうとかこれを書いときたいとか整合性が欲しいとか理念をどうこうとか考え始めたりして収集つかんなるね。刃物を研ぐのが上手になったらその辺の欲求を適当に切断できるんかも知らんけど。

原木でええわ、今後またなんか色々書いとこ。